会社の歩み


初代創業のころ

創業者、秀二は森竹繁吉・シカの次男として、明治18年11月、小松島市坂野町で生まれました。
 学校を出ると秀二は、神戸の南京町にあった茶谷商店へ奉公に出ました。茶谷商店は食品を取り扱う店で、秀二にとっては初めての経験でした。この経験が八百秀の100年の第一歩となっており、秀二にとって茶谷商店での苦労は十分に報われたといえます。
秀二は明治39年に茶谷商店での奉公を終え、徳島に戻り、自分の店づくりに奔走しました。経験を生かし食品関係の店を開くことにし、名前の"秀二"から店名を"八百秀"と決めておりました。しかし、その他のことは全く白紙であり、まず最初に苦労したのは店舗捜しでした。
 幸いにも徳島市西船場1丁目の借家を借りることができました。当時の船場は、徳島を代表する産業であった藍商の一大拠点として栄え、新町川の河畔には藍蔵が並び、さらにこの当時は徳島銀行や阿波商業銀行、あるいは阿波商業会議所などもあり、今でも、経済の中枢ともいえる場所であります。
秀二が借りた店は間口2間、奥行5間で、まず、乾物や食料品を取り扱う小売店としてスタートしました。
 


宣伝の徹底

秀二は商売の基本を次の4つにおきました。
(1)宣伝の徹底
(2)良品の廉売
(3)信用第一
(4)隣近所の交友に努める
特にこの時代において「宣伝の徹底」というのは特筆すべきことでした。
秀二はチラシの配布を明治40年代に実行しているのでした。秀二は手作りのチラシを作製し、新町、内町、二軒屋方面に、朝暗い内から各戸に配り八百秀の存在をPRしていました。
秀二のアイデアは、更に徳島で最初にバナナの販売を手掛けた時にも十分に発揮されました。秀二はバナナの販路の一つとして徳島駅を選んだのでした。
店舗の拡張も同様で、隣の陶器店が立ち退いたのを機に、その店も借り、取り扱い商品も乾物、缶詰、鰹節、鳴門わかめと確実に増えていきました。
 


鳴門わかめ

 特に鳴門わかめは、八百秀を代表する商品であり、秀二もその販売には大いに情熱を注ぎました。昭和4年には昭和天皇御大典の記念にと上京し、宮内庁に鳴門わかめを献上し、その名声を大いに高め、後年、こうした秀二の努力と熱意は、二代目保の手によって徳島県鳴門わかめ総販売元となるなど、大きな実を結ぶこととなりました。
秀二は、姪の朝子を大阪より養子に迎え、昭和5年春、名西郡鬼籠野村の村長楠瀬由三郎の次男保が朝子の婿となり、森竹家を引き継ぐこととなりました。
秀二に請われて養子となった保でしたが、役所勤めの経験しかない保にとって、お客様に対する挨拶の仕方も不慣れなもので、秀二は保にこうしたことを手始めに、商売のイロハを教え、保もまた商家の習わしをひとつずつ真剣に学んで行きました。
しかし、このころ秀二は、永年の無理からか、体調もすぐれず、病気がちで、昭和5年10月11日、46歳の若さで不帰の人となってしまいました。
 


廃墟からの出発

昭和6年9月に勃発した満州事変を契機として始まった日中戦争は、しだいに国民生活にも深刻な影響を及ぼすようになり、昭和16年12月にはアメリカとの全面戦争になりました。そして、昭和20年6月24日には、保にも召集令状がきました。
(株)八百秀においても営業活動は縮小の一途を辿っていました。ただ、わかめが統制品からはずれていたので、細々と営業が続けられていました。
保は山口県川棚で終戦を迎え、除隊、解散し8月23日、背中に毛布やカヤを背負い貨物列車に乗り、ようやく徳島駅に降り立ちました。保は途中、列車の中から灰塵に帰した広島市街を見て、わずかに残った家も屋根が一方の方向にひん曲がった状況に、原爆の威力の凄まじさをかいま見ました。
 降り立った徳島駅の付近は全く見る影もなく、焼け落ちて跡かたもない我が家を感無量の思いで眺めました。営々と築いた我が店がこのような無惨な姿になっていようとは、予想はしていたものの保の落胆は大きかったのです。
 また、天神社や春日神社にお参りにいっても、共に焼け落ちていました。しかし、天神社境内で思いもよらず「森竹さんと違うか」と東船場にあった伊月乾物店の番頭さんに声をかけられました。「お宅の位牌が山の中に落ちていたので拾っておいたよ。しばらく待ってな。」と、付近のバラックに入り、しばらくすると位牌を持ってきたのでした。たぶん朝子達が眉山へ逃げる途中、落としたことに気づかなかったのでしょう。
 保はまだ家族と顔を合わせていないのに、秀二の位牌に巡り合ったことに感動し、これはきっとご先祖が家を復興せよと、お示しになったものであろうと思いました。保はようやく家族の待つ鬼籠野に帰り着き、互いの無事を喜びあいました。保37歳の時でした。
   


再建への道

 (株)八百秀の再建は、まず住居の確保から始まりました。往事には較べようもありませんが、とにかく昭和20年の冬には家が完成しました。このころ付近には何もなく一望千里の焼け野原でした。
住居ができたので、翌21年春からは西船場の店舗の再建に取りかかりました。ようやく再建した店舗でしたが、統制経済下にあり、また商品もありませんでした。日本は復興の途についたばかりで、人の心も荒んでいたし、まともな商売が出来る状況にもなかったのです。
しかし、幸いにもわかめだけは、先代秀二と保が築きあげた信用があり、再建の切り札となりました。昭和26年に統制経済が完全に撤廃され、本格的な再建が始まりました。
保は県庁前の中洲港から京阪神方面に夜遅くに出帆する貨客船を利用し、関西方面で仕入に奔走しました。むろん、昼間は商売をしているので、寝る間を惜しんでのことでした。 朝の4時頃に大阪中央卸売市場に着き仕入をしました。さらに他の問屋を回って各種の商品の入手に走り回りました。
 この頃、大阪の(株)はるひこ商店の前社長は、わかめ代金の前払いをしてくれ、保を側面から支えて下さいました。また、宮崎商店の前社長は、旅行の途中に立ち寄り、わかめの取引きを開始して下さいました。お二人の会社とは、現在もお取り引きいただいており、(株)八百秀の再建の陰の恩人です。
保や従業員の寝食を忘れた働きにより(株)八百秀は、たちまち戦争の傷跡から立ち直ることができました。
 昭和27年には、当時としては数少ない鉄筋4階建のビルを完成させ入居しました。また、この年に(株)八百秀は株式会社に改組しました。




そして現在へ

 昭和30年頃から日本は「高度成長」期に入り、企業の発展は完全に戦前を超えました。(株)八百秀でも小売も、卸売も大きく業績を伸ばしていきました。
 昭和41年には、徳島市民病院が移転することになり、保は跡地が青果市場に近いことを考慮し、卸売業者の有志と相談して、徳島県卸売商社を設立しました。徳島市より跡地を買い取り、鉄筋5階建のビルを建設し、卸流通センターを開設しました。現金卸売を中心として業績を伸ばすことができました。
 この頃一方「鳴門若布」も業績を伸ばし、同時に「より良い若布」の採取に取組み、天然で生えている若布を、鳴門海峡の激流の中で育てるとより一層おいしい若布(風味、歯触り、色つや)が、採取できるだろうと考え、日本で初めて品種改良による鳴門に生茂している「オクテ」の若布を種付けし、養培により生育することに成功しました。この方法をいち早く生産者と取組み、(株)八百秀も出資しながら生産者の協力を得て養殖し、生産拡大に踏切りました。
 この成功により、みずみずしい海藻特有の香りと歯ごたえのある弾力性で親しまれる鳴門産若布の特徴として全国的に好評をいただくようになりました
 昭和48年には、徳島市中央卸売市場が北沖洲に開設されたのに伴い、隣接する金沢1丁目に、現社屋を新築し卸売センターを移転しました。いずれのケースも八百秀の業績の拡大に大きく寄与しており、保の経営感覚のすばらしさを示しています。卸売部門は株式会社八百秀として、本社を金沢町に移転しました。また、寺島西のビルは小売部門であるモリタケ八百秀の本社としても利用されています。
 (株)八百秀は昭和59年に現社長二郎に引き継がれ、瀬戸大橋の開通などによる商圏の変化を見据え、香川県坂出市へ進出し、新しい経営戦略を展開しています。
 保と(株)八百秀の今日は、秀二との出会いに始まり、妻の朝子や幾多の人々との出会いによって珠玉の100年となりました。
   

 
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